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Shinjuku-ku, Tokyo, Japan. 
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    ちょっと一息、いろいろなお話を。。
    こちらのコーナーでは特にジャンルやルールを設けず、様々なお話やお知らせをお伝えしてまいります。
    不定期お気楽更新、大切な情報ではございませんので、お時間のある方のみおつきあい下さい。

 
■ The Story of “adidas”.

ー The Story of “adidas”. Vol. 1 ー

それでは、アディダスのお話を。
前回ご紹介した書籍に加え、実際に僕がアディダス製品に触れることで得た体験的な知識やパリのアディダス博士なフランス人から聴いた話なども交えて、知りうる限りのことを書いていきたいと思います。
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まずは、起源から。
ご存知の通り、アディダスの創始者はアディ・ダスラー。正しくはアドルフ・ダスラーです。1978年にお亡くなりになっています。
1924年に兄ルドルフと共に靴製造専門の 『ダスラー兄弟商会』 を設立します。この辺はあまりにも有名な話なので、アディについてもっともっとつっこみます。
有名でないのは、その設立前のお話。
若き日のアディはパン屋の見習いだったとかそういう話です。
その当時からスポーツの魅力に取りつかれていたアディは、パン焼きを放り出し、母親の洗濯室の片隅に作業場を設けて靴づくりを開始したそうです。
まさにここです。
これが今となっては世界に知れ渡る巨大企業、アディダスの本当の起源です。
アディが当時住んでいたのはドイツの田舎町、ヘルツォーゲンアウラッハ。
やはりヘルツォーゲンアウラッハのアディの自宅が起源というわけです。
現在もアディダスはこの地に本社を構えているので、アディダスにとってのまさに聖地と呼べる場所です。
FUZZのバイヤーの “K” は先日のドイツ出張で、この本社に入ることを許されて見学をさせていただいたわけですが、それはそれは美しい環境だったと感激していました。
なるほど、素晴らしい職場環境が仕事の能率を上げ、有能な人材を育てる。
デキる会社は環境が美しい。わかるような気がします。
話を元に戻して、若き日のアディ。
当時、ヘルツォーゲンアウラッハでは多くの靴工場があったようです。アディの父親も実は靴職人。近くの靴工場の職工長だったそうで、はじめは反対しながらも、しだいに助言を与える羽目になっていきます。
彼は靴づくりを始めるにあたり、最初からスポーツシューズ専門でいこうと決めていました。そして友人数名をこの新事業に参画させ、いよいよ靴づくりを開始します。
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当時のヨーロッパのシューズ事情ですが、今のように街中でスポーツ用のスニーカーを履く習慣は皆無でした。街では革靴を、そしてスポーツシューズはスポーツの場面のみ。
そしてその当時のスポーツシューズといえば、原始的なデザインに、競技によって異なる機能を要するところに充分な対応ができていない、きわめて未熟なしろものでした。
スポーツを心から愛するアディはその部分に目を付け、『パフォーマンス向上を引き出す高品質スポーツシューズの製造』 を信念として、競技、種目に応じた機能を備えた靴づくりをしていくことに自らの活躍の場を求めたのです。
この信念は現在のアディダスでも変わらずに貫かれているということですから、なんとも素晴らしいですね。
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そしてまずクロム革ソールのキャンバス・スニーカーを最初のヒット商品として、事業は順調に滑り出し、1924年に当時革製品会社に勤めていた兄のルドルフを事業に参画しないかと誘い、ダスラー兄弟商会が誕生します。
アディは無口な職人気質、努力家で現実直視型。一方ルドルフは進取の気性に富んだ社交家タイプで、正反対の気質の持ち主だったようです。
そして二人とも、かなりクセのある性格だったみたいです。
そんなわけなので、自然、アディがデザイン構築と技術革新を受け持ち、ルドルフがセールスを担当するという構図ができあがります。
こうしてスポーツシューズメーカーとしてのアディの事業が、まだほんの小さな形態ではありながらも、まずは幕を開けるのです。
 

ー The Story of “adidas”. Vol. 2 ー

さてさて、順調に滑り出した 『ダスラー兄弟商会』 ですが、社の名声が高まるのは1928年のアムステルダムオリンピックとなります。
初めて大きな舞台でダスラー社の製品が使用されることによって、ダスラー社とその製品は広く認知されるようになりました。
さらに4年後、1932年のロサンゼルスオリンピックにおいて、男子100メートル走でドイツ人のアルトゥール・ジョナトが銅メダルを獲得した際に、その興奮は最高潮に達しました。
この時点で会社は従業員数が70名を超える程度。まだまだ大企業と呼ばれるような規模ではありませんが、会社としては大きく成長し、地元では成功を収めた実業家として、アディに対して多くの羨望のまなざしが向けられました。
しかしこの時32歳のアディ本人は会社の成功とは別に、シューズづくりの面でまだまだ満足していませんでした。
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アディの出した結論 ―- それは問題は自分自身にあるといったことでした。
高い性能を追求したシューズを作るには、アディ自身の専門知識が不足していると気付いたのです。
ここまで父の助言と独学で靴づくりをしてきたアディは、この先さらに機能や性能を高めることを目指すにあたっては、より専門的な知識が必要と感じ、1780年代からドイツの製靴業の中心地であった古都ピルマゼンスの専門学校で学業に勤しむことを決意するのです。
そして足の構造からデザイン、製造に至る過程を学び、製靴業の幅広い知識と専門家としての技術を磨いたのでした。
勤勉な職人気質のアディを物語るエピソードですね。
きっとこのアディの真面目さがアディダスという会社の根っこになって成長して行ったのだろうなぁ。
それから、この時、ピルマゼンスの地で、後に結婚する女性と知り合い、ヘルツォーゲンアウラッハに連れて帰るのでした。
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故郷に戻ったアディはドイツ屈指の靴デザイナーへの道を歩みはじめます。
就学前、アディは兄のルドルフにこう約束していました。
「工場に戻ったら、世界最軽量のシューズをつくって世間をあっと言わせてみせる」
そしてほどなくして見事にその約束を果たすことになるのです。

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当時、陸上の短距離界においてめざましい活躍をしていたアメリカ人ランナー、ジェシー・オーエンス。
陸上競技の熱心なファンであるアディは、その後のベルリンオリンピックで伝説的な活躍を遂げる以前からオーエンスのことを熟知していました。
なんとかしてこの前途有望なアメリカ人ランナーに自分のつくったシューズを履いてもらいたい。アディはそう考えました。
誤解しないでいただきたいのは、アディはオーエンスにマーケティング的な価値を見出してこう考えたのではないということです。一人の素晴らしいスプリンターに、自分の最高傑作を履いてもらい、最高のパフォーマンスを見せてほしい ―― 。
職人の純粋な願いからの自然な願望でした。

そして1936年、ベルリンオリンピックに出場するためにドイツに到着したオーエンスとの面会にこぎつけます。
この時、アディは初めての母国開催のオリンピックで、優勝候補の筆頭にも挙げられる選手に自分のシューズを提供しようとしていることに身震いする思いでした。
そうして、アディがこれまでに培った知識と技術の結晶である短距離走用のスパイクシューズをオーエンスに差し出しました。
22歳の若きスプリンター、オーエンスはアディのそのスパイクがすっかり気に入りました。(やった!)
そして 彼は全てのレースでこのスパイクを履いて出場し、素晴らしい結果を重ねていくのです。
なんとオーエンスは、100m、200m、400mリレー、走り幅跳びの4種目で優勝というオリンピック史上に残る偉業を成し遂げることとなったのです。
こうしてオリンピックスタジアムでその光景を観ていたアディに、このうえない至福の瞬間が訪れたのでした。
 

ー The Story of “adidas”. Vol. 3 ー

ミュンヘンオリンピックで大きな感激を味わったアディでしたが、実はこのオーエンスとダスラー商会との間には特別な契約はありませんでした。
現代では当たり前となっているマーケティング手法、つまり有名アスリートを媒体とした宣伝活動の意識が、当時は露ほどもなかったのです。
この後、アディの息子、ホーストがその価値を見出し、マーケティング戦略として積極的に活用していくことになります。
今ではスポーツメーカーが有名なスポーツ選手と契約を結ぶことは非常に重要なマーケティングツールとして認識されていますが、その基礎をつくったのは、当時20歳そこそこのホースト・ダスラーだったのです。
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ミュンヘンオリンピックの後、世界は第2次世界大戦という闇の時代に移ります。
戦争中はオリンピックの開催も無く、アディは兵士用のブーツなどの製造をすることとなり、勢いのついてきたダスラー社の進撃も宙に浮いた状態となるのでした。
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さて、戦争が終わると、ダスラー商会にとって重大な分岐点が訪れます。
ルドルフとアディの不和。有名な話ですね。
情熱と競争心を抑制する習慣のなかったダスラー家の家風も影響してか、お互いの確執はどうしようもないレベルに達してしまったのです。
正確な原因は両家の秘密として一切公表されず、さまざまな憶測が飛び交いました。
―― ルドルフがアディの妻ケイトにむかってアディを中傷していた事実をアディがつかんだのだ!
―― アディが身を粉にして働いた成果をルドルフに横取りされていると感じ始めたのだ!
―― ルドルフの幼い息子アルミンがバルコニーで遊んでいる最中に、ケイトに向かって唾を吐いてしまったのだ!
そんなバカな〜、と思いますよね?
でも当時のダスラー家は、こんなレベルの噂でもありうる話としてささやかれていたというのですから、ちょっと変わっていたところがあったようです。
いずれにしても、両者の溝は埋めがたく、とうとう二人は決別を決心することになるのです。
ダスラー商会の資産は細心の注意を払って分割され、アディは自らの名前と苗字を組み合わせた “アディダス” を、ルドルフは躍動感と力強さを求め、“プーマ” をスタートすることになったのです。
ここに正式に、正真正銘の “adidas” が誕生するのです。
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ルドルフの “プーマ” は、街の中心を流れるアウラッハ川の対岸を拠点したことで、両者が川を挟んで睨み合うような、『兄弟が対立している感』 を一層際立たせ、ライバル会社ということにもなったわけですから、アディとルドルフの不和はますますヒートアップしていくのです。
「われわれ兄弟は人間として、どうしても相容れないのだ」 とはアディの弁。
いとこ同士にあたるお互いの息子(アルミンとホースト)も家業を継ぐのですが、やはりほとんど接点を持たなかったようです。

こうして袂を別けた二つの会社はライバル心をむきだしにして走り出します。
この環境があったからこそ、軋轢(あつれき)が生んだ切磋琢磨の関係こそが、アディダスとプーマが世界の頂点に君臨するスポーツメーカーに成長した要因なのだ、というのが
一般的な見解のようです。
でもまぁ、ダスラー商会のままでも世界のトップは獲れていたでしょうね。
当時、アディのような存在は世界にアディしかいなかったわけですから。

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日本が世界に誇る起業家もたくさんいます。代表的な人物では松下幸之助、本田宗一郎だと思いますが、アディ・ダスラーは完全に本田宗一郎のラインですね。
現場から、モノづくりからスタートして最後まで貫いていく姿勢がちょっと似ていると思いました。


ー The Story of “adidas”. Vol. 4ー

アディダス社誕生と同時に、アディはプーマ製品との確実な差別化ができるデザインの必要性を感じ、“スリーストライプ” を自社製品の品質保証のロゴとして商標登録しました。
以後、 “スリーストライプ” はアディダスだけのものとなり、ほとんどのアディダス製品に3本のラインが走ることになるというわけです。

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1954年、ワールドカップスイス大会。
アディダスの “スリーストライプ” が世界を席巻します。
西ドイツはこの大会で始めての優勝を勝ち取るのですが、その時に当時最高のスパイクを提供したのが、他ならぬアディダスだったのです。
終戦後まもないこの時期の西ドイツは、国際社会から孤立して、ワールドカップへの参加もようやくこぎつけたという状況でした。
1950年のブラジル大会には参加できなかったということもあり、当時の西ドイツチームは国際舞台での経験が少なく、その実力も今とは違って、ブラジルやオーストリア、イングランド、ウルグアイなどの当時のトップレベルのチームとは比べものにならないくらい貧弱と見るのが一般的だったようです。
しかし、アディダスのスパイクを履いた西ドイツチームが、とんでもないドラマをまき起こすのです!

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この大会、優勝候補の大本命はハンガリーでした。
あるジャーナリストはこう言っています。「ワールドカップ史上、この時のハンガリーほど優勝確実と言われたチームは無い」
事実、この時まで、ハンガリーは国際試合28連勝という離れ業をやってのけ、現在でもハンガリーでは伝説の史上最強チームとなっているのです。
西ドイツはそのハンガリーと予選で対戦。
8対3というスコアでコテンパンにぶっとばされます。。
しかし、同組のトルコを退け、なんとか決勝トーナメントへ進出すると、そのまま勢いに乗り、準々決勝でユーゴスラビアを、準決勝でスイスを破って決勝戦にコマを進めるのです。
決勝戦でまみえるのは再びハンガリー。準々決勝でブラジルを、準決勝でウルグアイを下しての決勝進出です。
勝ち目の無いと思われたこの一戦、西ドイツに思わぬ追い風が吹きます。
一つはハンガリーのエース、プスカシュが怪我を押して強行出場をし、足を引きずりながらのプレーで、その脅威から幾分逃れることができたこと。
もう一つは決勝戦の舞台が激しい雨に見舞われたことでした。


アディ(アドルフ・ダスラー)
ちょっとデ・ニーロ入ってる!?
雨で重いピッチコンディション。アディの技術が存分に生かされたスパイクがその威力を発揮する時が訪れました。
この時選手が履いていたスパイクは 『ヴェルトマイスター』 という当時のスパイクの常識を覆した画期的なものでした。
固め、柔らかめのグランド状態や天候に合わせてスタッドを取替えることが可能で、履き心地、耐久性もグッと向上、なおかつ、選手一人ひとりの足に合わせて作られているという、アディの技術と愛情の詰まった渾身の作品だったのです。
アディは西ドイツ監督のゼップ・ヘルベルガーから絶大な信頼を寄せられていたためにチームに帯同しており、雨が降り始めたのを確認した途端、自らスタッドを硬くて長い、踏ん張りの利くものに取り替えたのです。
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決勝戦の幕が開き、立ち上がりからハンガリーが怒涛の攻撃をしかけます。
開始8分で2点を奪い、早くも実力の違いを見せつけたのです!
そして幾分気を抜いた感のあるハンガリー。
対してようやく国際舞台復帰を果たし、少しでも良い立場に立つために栄冠の欲しい西ドイツは勝負を諦めません。
試合が進むにつれピッチのぬかるみはひどくなり、徐々に 『ヴェルトマイスター』 がその威力を発揮していくのです。
そしてなんと、マックス・モーロックとヘルムート・ラーンのゴールで前半のうちに同点に追いついてしまいます。
圧倒的なテクニックを持つハンガリーに対して、フィジカルとスピリットで立ち向かう西ドイツ。
後半、一進一退の互角の攻防が続き、84分 ―― ついに均衡が破れます。
ヘルムート・ラーンの決勝ゴール!
よくある話ですが、このゴールシーンのラジオ実況はドイツスポーツ史上最高の実況と言われているそうです。

 シェイファーのクロス。
 これはヘッドでクリア。

 ボールはラーンの足元に。
 シュートにはちょっと遠いか?
 ラーン、シュート!
 ゴール、ゴール、ゴール、ゴォォォーーーール!!!
そして感極まった実況・ツィンマーマンはなんと8秒の沈黙!
必死で耳をかたむけるラジオ聴衆は、この沈黙にも気が遠くなるような思いで聞き入るのです。
そして8秒後
 ドイツの得点!
 これでドイツが3対2でリード!
 
 信じられない!
 もう気が狂いそうだ!

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“ベルンの奇跡” と呼ばれたこの西ドイツの快挙は、戦犯国という事情から盛大な祝福とは無縁でしたが、ドイツ国民に静かな満足感を与え、近代民主国家として国際復帰に必要な元気と自信を取り戻していくことに一役買ったのでした。
このエピソードは 『ベルンの奇蹟』 というそのままの題名で2003年にドキュメンタリー映画として封切られ、ドイツ国内で爆発的な人気を博したそうです。
僕はまだ観ていないのですが、そのうちに機会をつくって観てみようと思います。
皆様も是非に。

さてさて、見事に優勝を果たした西ドイツイレブン。
我らがアディはその光景を、なんとチームのベンチ内で静かに見守っていました。
アディは狂喜乱舞するようなタイプの性格ではないので、静かに、けれども深い感激をしみじみと味わっていたのです。
試合中のベンチ入りに加え、試合後の杯の授与の際の写真撮影では、ヘルベルガー監督に呼ばれ、チームの集合写真に一緒に納まるなど、すっかりチームスタッフの一員のような立場になってしまいました。
ヘルベルガー監督とアディの信頼関係と友情は長い間続き、生涯家族ぐるみの付き合いが続いたそうです。

また、 数あるワールドカップの優勝写真の中で、チームの靴職人が一緒になって写っている写真は後にも先にもこの時のアディだけだということです。

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余談。この時のハンガリーは本当に強いチームで、“マジック・マジャール(魔法使いのハンガリー人)” というニックネームで呼ばれ、4年間無敗を誇りました。
エースストライカーのプスカシュは、ちょっと前にイランのアリ・ダエイが破る前の国際Aマッチの最多得点記録保持者でした。ずいぶん長い間破られなかった大記録だったわけですね。
1958年にレアル・マドリードに移籍し、チャンピョンズ・リーグなどでも活躍した名ストライカーでした。

ー The Story of “adidas”. Vol. 5ー
西ドイツイレブンと共にワールドカップでの栄冠を手にしたアディダスは会社として順調に成長していきます。
この頃になるとアディは社の経営の要所を妻のケイト、息子のホーストに任せることが多くなりました。
世界的に有力実業家として名が通るようになったアディですが、大好きなシューズのデザインをする時間を一番大切にするといったことは変わりません。むしろ商業的な成功者を見られるのを嫌い、実業家が集う会合などは彼にとって苦痛そのものだったのです。
しかしながら、アディが切り開いてきたスポーツシューズ・ウェア業界も、プーマとの競い合いなども手伝って、商業的に成熟しつつあり、アディの理解の及ばない範囲に入りつつありました。
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1950年代後半、ドイツ出身の世界最速スプリンター、アルミン・ハリーは100メートル走で10秒フラットの世界新記録を樹立します。
ドイツ人のハリーが履くスパイクはもちろんアディダス製で、例のごとくアディが情熱をもってデザインしたものです。
ハリーの体格や走法、足の形を分析し、ホーストを連れてヘルツォーゲンアウラッハの森に入っては試作品を履いて試走をしたりと、いつものようにシューズづくりに励みます。
そうして結果的にはこのスパイクの性能も手伝って、ハリーは世界のスプリント界で大活躍をしていくのですが、ここでこれまでには無かった事態が発生します。
ハリーの成功には、やはりハリーの努力と自己投資という多大なコストがかかっているということにハリー自身が気付いたのです。
さらに彼は自らのスプリンターとして価値が、商業的な側面においても大きなものであることにも気付き、アディダス社に対して自分の努力と成果に対する金銭的な要求をするに至るのです。
そこでハリーは自分がアディダスのスパイクを履いたという宣伝効果によって、社の認知度が飛躍的に上がったと主張し、それにふさわしい報酬を払うようアディに要求します。
アディには理解の及ばない話です。検討の余地もないときっぱりと断りました。
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それからほどなくして、1960年のローマオリンピック。
ハリーは予選から素晴らしい走りを見せ、順当に決勝の舞台に登ります。
もちろんアディも、オリンピックのスプリント競技ではドイツ人として初となる金メダル獲得の瞬間を見ようとスタジアムに陣取っています。
そしてとうとう決勝のレースが始まる直前、選手がウォームアップを追え、スタートブロックに足をセットした時です。
そこにはアディにとって衝撃的な光景があったのです。
なんと、決勝のレースでハリーが履いていたスパイクが、アディがこの日のハリーのために丹精こめてつくったスパイク “イタリア” ではなかったのです!
ハリーが履いていたのはプーマのスパイクだったのです!
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この出来事が契機となり、『一流アスリートを媒体とした広告戦略』 というものが急速に一般化して行き、その後は各社が有名アスリートとの契約を巡って血眼になって競うといった状況になっていくわけです。
すぐ後の1964年の東京オリンピックでは、参加した一流陸上選手のほとんどがアディダスかプーマから金銭的な支援を受けていたということです。
そしてその展開を積極的に進めたのが他ならぬ息子ホーストであり、それはビジネス的な嗅覚、実行力に長けた彼が、父アディの世界一の技術を、大きな舞台で大きな商業的成功に導いた活動とも言えたのです。
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その後、メキシコオリンピックで大スターとなったアメリカ人のハイ・ジャンパー、背面飛びの生みの親であるディック・フォズベリーとの契約で、巨大なアメリカ市場を一気に切り開きます。
こうしてアディダスはホーストの手腕もあって、名実共に世界でトップと言える巨大なグローバル企業として名声を得るようになったのでした。
 

ー The Story of “adidas”. Vol. 6 ー

アディダスがグローバル企業になってきた頃、お話の中心はアディの息子、ホースト・ダスラーに移ります。
アディの技術を極めて革新的なマーケティング戦略によって全世界中に広め、他社を寄せ付けない圧倒的なシェアを誇るようになった、まさにアディダスの黄金期を築いた立役者が他でも無い、このホーストなのです。

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20歳でアディダスに入社したホーストは、父のアディのつくるシューズに絶大な自信を持ち、疲れを知らないエネルギッシュな営業活動を展開していきます。
前述した通り、有名トップアスリートにシューズを無料提供して、実際に競技に使ってもらうことによる宣伝効果にいち早く目をつけたのがホーストでした。
また、社交の場でも要人と積極的に交流し、ビジネスに必要な人脈づくりにも秀でた才能を持ちあわせていました。
まさに “スゴ腕の実業家” というイメージがピッタリくるようなビジネスパーソンだったようです。
そのためスポーツ界に与えた影響もとても大きなもので、あるアディダスの元幹部は、「スポーツプロモーションの概念は彼が考案したものだ。スポーツを単なるスポーツからエンターテイメントにするための基本ルールを設定したのだ」 と語っています。

アーサー・アッシュ、スタン・スミスの代理人を務めたことで知られるドナルド・デルはこう語ります。「ビジネス界でホーストほど頭の切れる男に会ったことはない。ホーストは 『たぶん』 という言葉は決して口にしなかった」。
また、あるジャーナリストは、 「ホーストは父親に似て小柄ながら屈強な体つきで行動力に富んでいた。32歳にして既にアディダスの成長を支える存在であった。四ヶ国語を操り、どの言葉でも相手の警戒心を解き、心を開かせる術をこころえている」 と語っています。
要するに、やり手の社長だったということですね。
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ホーストはアディダスの主催として IOC(オリンピック委員会) や FIFA(サッカー協会) の晩餐会や歓迎会を積極的に催し、人脈づくりに励むとともに、それによって各界での自らの発言力を強めていきます。
もちろんそれらの活動は基本的にはアディダス社のための行為ですが、ついにはスポーツそのものを国際ビジネスとして発展させていく張本人になってしまいます。
スポーツ業界の支配者と言っても過言ではない存在になっていくのです。
具体的な例を一つ挙げると、ロサンゼルス・オリンピック。
ロス以前はオリンピックと言えば高尚なスポーツの祭典、商業主義とは無縁、むしろ政治色が濃厚に漂う国際イベントでした。
1972年ミュンヘンではおぞましいテロ事件が。次の76年モントリオールではアフリカ諸国がボイコット。次のモスクワでは冷戦の影響が全開で、アメリカはじめ多数の国がボイコット。そして次のロスではソ連がボイコットしています。
モントリオールでは財務管理を誤り、今でもカナダはその時の借金を返しているそうです(もちろん税金で)。
そんな状況でしたから、当時オリンピックの開催権なんて誰も欲しがらないのはうなずけます。現在では考えられませんが、ロスの時は対立候補無しの無投票決定でした。
それを今のように多くの国に開催したいと思わせるイベントにしたのがホーストなのです。正確にはホーストがその後ろ盾となってバックアップしたサマランチ会長と二人で、ということですが、その二人がオリンピックを救ったと言っても過言ではないかもしれません。

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ホーストはまず、オリンピックの放送権契約をより有利にする交渉を始め、さらにコカ・コーラ、ビザ、コダックなどの有力企業と長期スポンサー契約を結びます。
それまではオリンピックの競技場内での広告宣伝は一切禁じられていたため、この契約はホーストの魔法のようだったと評されました。
スポンサー企業はホーストのつくったマーケティング会社ISLを介して広告を入れていたわけですから、オリンピックでの広告はホーストを通さなければならないシステムができあがっているわけです。もうオリンピックの代理人ですね。
スポンサー企業も宣伝効果に満足し、オリンピック委員会的も財政面が飛躍的に改善され、ホーストのやりくりは両者に、そしてひいては観戦者にも満足を与える結果となったのでした。
もちろん、ホーストもたんまりと儲けたのでしょうね。

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このように、敏腕実業家のホーストなのですが、お察しの通り、『裏金』、『汚職』 といった行為は当然のこととして為されていました。
まあ “いい時代” と言いますか、全てが悪い行為といった認識では無かったし、何より汚職にしても、それまで無かったものを作り出したわけですから、やっぱり凄いというのはありますよね。
ただあるジャーナリストはこう語っています。「ホーストはスポーツ好きの道義をわきまえた男であった。しかし、スポーツを愛するあまり無駄な投資を行うことも多かった」。
アディの子ですから、しっかりスポーツを愛しながらのビジネス活動だったと思います。
 

ー The Story of “adidas”. Vol. 7 ー

さて、前回はホーストの偉大な業績を簡単にご説明しましたが、ホーストと言えばもう一つ、重要な業績として、 “アディダス・フランス” の設立が挙げられます。
1958年、フランス東部のランデルシャイムという町に設立しました。
ここでホーストは素晴らしい手腕を発揮して、後の大きな舞台に踊り出る実績を積むのです。
例を挙げると、それまでほとんどシューズ専門メーカーであったところを、スポーツウェア、テニス関連製品、サッカーボールなどの分野へ積極的に進出したり、さらに、“ルコック”、“アリーナ”、“ファソナブル”、“ポニー” という数々のブランドを立ち上げたりもしています。
“ルコック” や “ポニー” がアディダスから生まれたブランドだということは案外知られていませんよね。現在ではそれぞれ売却され、それぞれ別の企業体として運営されています。
ヴィンテージのルコックにスリーストライプの入っている製品が存在しますが、そういう理由でありうるわけです。

さらに、現在でも人気のあのスニーカー、“スタンスミス” もホーストの手によってアディダス・フランスから出た製品です。
やはり、 発売当時からベストセラーだったようです。
スポーツウェアに関して言えば、現在では “ワールドマーク”、“ファーストロゴ” などと呼ばれるトレフォイルマーク以前のジャージなどがフランス社の初期の頃の代表的な製品ですが、いわゆるフランス社設立当初のプロダクツである “made in FRANCE” のアディダス製品によってフランス社は快進撃を始めたということが言えると思います。
現在、“made in FRANCE” のアディダスが、単に “高級イメージのフランス製” とか、フランス製はだいぶ昔のものだから今やあまり手に入らない、などの理由だけで人気があるのではなく、まさに当時それらを製造していた会社そのものが活気があって、ノリが良くて、勢いがあってということだったので、それがそのまま製品に乗っかっていると言うか、そういう元気みたいなものを表してしまっているところがあるのだろうなぁ、なんて思います。
“レア” プラス、“かっこいい!”、プラス “何か”、ということでヴィンテージ的な価値は高まっていくもので、最後の “何か” は偶然性に富んでいて、それでいてはっきりとは感じ取れない、理屈ではない何かなのかな、なんて考えてみたり。

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設立後、すぐに軌道に乗ったアディダス・フランスは、快進撃を続けます。
フランスの人気スポーツであるサッカー、ラグビーの分野では、アディダス製品で溢れかえる状態になり、フランス社はほどなくしてドイツ本社と同じような規模を誇るほどになるのです。
アディダス・フランスがあまりにも好調なため、アディダスとはフランスの会社だと勘違いする消費者や取引業者もいたほどだったそうです。

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フランス進出を果たし、順風満帆に見えたアディダスに暗雲がたちこめるようになったのは、フランス進出を果たしたことが原因だったとも言えるでしょう。
アディダス・フランスの好調により、ドイツ本社とフランス社は同程度の規模となり、なんと、あろうことか、お互いをライバル視するようになってしまうのです。
ここでもダスラー家のアクの強さが垣間見れるのでが、要はアディと妻のケイトを中心として切り盛りするドイツ本社とホーストがトップになって敏腕を振るうフランス社の性格があまりにも違ってきてしまったのです。
靴職人としては超一流だったアディですが、経営という面においては息子のホーストに遠く及びません。
ホーストがアディから離れたことで、アディ夫妻の経営判断によって進まざるをえなくなったドイツ本社ですから、当然、硬直してくるところがいろいろな面で出てくるのです。なにせアディは頑固一徹の職人肌ですからね。
時代の移り変わりを的確に読み、スピードと柔軟性をもって経営していくホーストに対し、『良いものは良い、譲れないぜ』 なアディとではあまりにも違います。
例えば、ライバル会社が次々と現れて、価格競争が激化してきたりすると、生産拠点をアジアにしようか、などという経営判断に迫られます。
アディはもちろん 『もちろんノーだ、任せておけるか』 です。
素晴らしい。素晴らしいのですが、これは大きな企業体がとる判断としては間違いなわけです。
そうやってきたから成功してきたわけなのに、成功したらそれができない。
それは本当に難しい経営の機微なのでしょうが、後々も成長していく企業の経営者なら気付かなくてはいけないところなのでしょうね。
ホーストにはそれが分かりますが、アディには無理なのです。
そうやって違った方法論で成功していくホーストに対し、ライバル心を抱くようになっていくわけです。
プーマをライバル視することは会社にとってプラスですが、同じアディダスで本来協力して戦略を立てていける相手をライバル視するのはマイナスだったということでした。

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そうこうしているうちに、ホーストは前回のお話で出てきたオリンピックやワールドカップ関連のプロジェクトに携わりはじめ、ISLという自身の裁量でつくった会社の業務にも追われ始めます。
そしてホーストのおかげでさらなる盛り上がりを見せるスポーツ業界には、当然、同業のライバルが増えてくるのが経済の摂理なわけです。
グローバル市場で複数のライバル会社がしのぎを削るなか、王者であるはずのアディダスは、ホーストの不在がちなことも手伝って、ドイツとフランスの身内同士で足の引っ張り合いをしていたことになるのです。
そういう状況の下、アディダスにとって厳しい時代を迎えることになっていくわけですが、
時代はものすごい速さで移り変わっていたために、それでも勝てるほど甘い世の中ではなくなってきていたということですね。

“冬の時代” がすぐそこまで来ている状態です。
 

ー The Story of “adidas”. Vol. 8 ー

「頂点に立つのは難しい。だがトップの座を守る方がはるかに難しい」
スポーツの世界で使い古されたこの格言の例にもれなかったアディダスは、1980年代の末期頃から低迷状態に陥ります。
その理由には多くの事が挙げられますが、真っ先に挙がる懸案が生産拠点に関するものでした。
競合他社は生産コストを低減するために、労働賃金コストの安いアジアに生産拠点を移しているのに対し、アディダスは80年代に入ってもしばらくの間、ほとんどの製品をヨーロッパ内で製造していたのです。
詳しい人なら、80年代のアディダスのジャージやスニーカーなどの製品に、フランス製や西ドイツ製などが多く存在することを知っていると思います。
今となっては古い時代の品々を楽しむ我々のような人種からすれば、それがうれしいポイントの一つになっているのですが、 実は当時では、それがアディダスの経営を圧迫する大きな要因になっていたのです。
アディダスに代わってトップの座を奪ったのはどのブランドでしょう。
もちろんナイキです。
ナイキは1971年の創業時からアジアに生産の拠点を置いています。
コスト管理と品質管理のバランスの良さ、センスの良いマーケティングの力で急速に業績を伸ばしたのがアメリカブランドのナイキです。
一方、アディダスではコストの意識は低く、デリバリーシステムの非効率、組織運営の非効率などもあり、ズルズルと業績を悪化させていったのです。

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ナイキの創業者はフィル・ナイト。
ナイト
がスポーツシューズ業界に身を投じるきっかけになったのは、なんと日本を訪問した時なのです。
日本で目にしたオニツカ・タイガーのシューズをアメリカで売りたいと思ったことから端を発して業界に飛びこんだナイトは、ナイキ創業まで、オニツカタイガーのアメリカ代理店的な活動をしていたのです。
数年後にナイキを立ち上げるのですが、まずは日本や台湾から商品を仕入れながら、アジアを拠点とする生産体制を整えていきました。
そして創業当初から、どうやらナイキにとって良い風が吹き続けたようです。
1970年代の頃から、アメリカでにわかに広まり出したジョギングブーム。また、その流れでアメリカ全土はランニングシューズブームへと発展します。
ナイキへの追い風の最も大きな要因は、何と言ってもアディダスの “ていたらく”
なわけですが、この社会現象をナイキはしっかりと自分のものにします。
アスリートに向けた製品では当時はアディダスにはかないません。けれどもアメリカでは 『一般人の軽いジョギング』 というニーズが生まれ、それまでアメリカでもトップの座に居たアディダスよりも上手にそのニーズに応えたのです。
昔かたぎのアディダスは、一般用のジョギングシューズのニーズを見極められず、トップアスリートのニーズに応えるのに夢中になっています。
一方ナイキは、一般人のランナーが一般道を走るにあたっては、年齢層によってはソフトな感触のもの望んでいるのではないかと察知して、ニーズに合ったジョギングシューズを開発します。
このジョギングブームから始まった流れは、スポーツシューズブランドにとって、新しい大きな流れの始まりだったようです。
アメリカの人々は、ランニングシューズをあらゆる場面で履く習慣がつき、その後はランニングシューズにとどまらず、様々なスポーツシューズが一般生活において、時にはファッション的な要素も求めて利用されるようになったのです。
この時代の流れはスポーツシューズ業界のそれまでの常識を覆すような力を秘めた重大な変革だったと言えるでしょう。

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この現象はマーケティングの面でも大きな変化をもたらします。
当時定着していたアスリートを媒体にした広告手法が、ほとんど価値を持たないものになってきたのです。
ファッションアイテムとして、自分の靴箱には数足のスニーカーを保持したいと思うようになった一般人は、テレビに映る有名人がどんなブランドのどんなシューズを履いているかに興味を持つようになりました。
これは競技を目的としないスポーツシューズのニーズが生まれたわけですから、業界としてはパイ自体が大きく膨れ上がるという願ってもない現象です。
皮肉にも、そんな現象のきっかけを作り上げたのは、スポーツそのものを一般人のためのエンターテイメントとして盛り上げたホーストの手腕でありながら、アディダスだけが享受できずに取り残された格好となったわけです。
まだアディが現役で、そのような流れが生まれ始めた頃、アディは他社の新作のシューズを取り寄せてはじっくりと観察し、品質的に問題にならないと安堵していたということです。
問題が全く別のところにあるのは明白だったのにもかかわらず。
そして王様気分を続けたアディダスはナイキに追い抜かれ、他の数社にも追い抜かれ、ぬきさしならない状況に追い込まれていくのです。
 

ー The Story of “adidas”. Vol. 9 ー

1985年の時点でアディダスは売上の面で、まだ業界トップの座を守っています。
しかし、業績悪化は歯止めがきかず、1990年になると、シューズ業界で重要な位置を占めるアメリカ市場において、ナイキのシェアが約30%、リーボックが約20%を誇るなか、なんとアディダスは2.9%まで落ち込んでいるのです。
ナイキの10分の1です。
この時期、アディダスの幹部がこのような自慢をしていたそうです。
「ナイキの認知度が40%に対して、アディダスは90%の高い認知度を持っている」
つまり、肝心な認知度の中身、内容に大きな違いがあったということですね。
そして1987年、ホーストの死去を機に、アディダスの衰退はさらに加速していき、1991年には給料支払い義務不履行の寸前まで追い詰められるのです。
まさに崖っぷち。
それまで業績不振でありながらも経営体質の改善を図らず、非効率的で的を外していた経営習慣をドラマチックに変えていかなければならない時がやってきたのです。

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スティーブ・ムーアという人がいます。
ムーアはナイキとアディダスの両社で働いた経験を持つ人物で、ナイキの成長に尽力し、アディダスの再生に力を振るうという経歴を持っています。
そのムーアが言うには、「アディダスは文字通りアメリカを支配下に置いていた。アディダスは短期間にアメリカ人にとって必須アイテムになるほどの成長を遂げた。70年代はアディダスの時代であった。」 と言っています。
フィル・ナイトとムーアが、ナイキの成長にどのような方法をとったかというと、それはプーマと同じようなやり方でした。
それはアディダスより大きく力が劣るという状況での “アンチ・アディダス” 的な方法論です。
「ナイキは成り上がりブランドの非行少年。アディダスは権威を持つ父親的存在。この2人が仲良くできるはずがない。アディダスは80年代半ばまで、ナイキの存在に目もくれなかった」 とムーアは語ります。
アディダス打倒がモチベーションとなり、近代的な戦略を駆使して戦ったナイキは、驚くほどの短期間でその目的を果たすのです。
アディダスが正統派ブランドであるのは周知の事実。ナイキはややもすると横柄だとも捉えられるようなブランドイメージを創り上げ、若者に “ Cool ! ” と言わしめることに成功したのです。
この大逆転劇の背景には、『時代性』 という大きなキーワードが見てとれるわけですが、それをしっかりと把握して活かすということが、どれだけビジネスにとって大きな要素となるのかを決定的に示した事例と言えるようです。

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さて、とうとうどん詰まりの局面を迎えたアディダスは、経営再建に向けて、新たな旗手を探し求める作業を始めます。
自力で経営することが困難になってしまったため、社長になってくれる人材を探すというより、お金を出してくれる人物(買収先)を探すと言った方が適切です。
債務にまみれたアディダスを買い取る企業はなかなか見つからない状態で、こうなると企業というよりも、債務を承知で、潤沢な資産を持った、経営手腕に富んだ、野心に溢れた実業家、という都合の良い条件の人物を探すことになったのです。
そしてまず初めに決まったのが、悪名高きフランス人詐欺師、ベルナール・タピという人物でした。
このベルナール・タピという人物、とんでもない悪党なだけで、アディダスのためにプラスになるような実績は残していません。
フランス人のタピはナイトクラブの歌手から起業家に転進、立身出世を果たすと、名門サッカークラブのマルセイユの会長になり、フランスの財界で名の知られる存在となっていきます。
その後、ミッテラン大統領時に閣僚の経験までしているのですが、フランスサッカー界にその名を残した八百長事件を起こし、その正体は 『欺瞞に満ちた脱税者』 であったということです。
不正な資金繰りによって企業買収を繰り返し、資産を吸い上げて売却するといった手法で成り上がっていったタピですが、日本にもちょっと似たような例がありましたよね。
株式分割によって株価を上昇させ、株式交換によって企業を次々に買収、そして不正会計で疑獄 ・・・、というあの人物がチラっと頭をよぎります。
どこの国にもいるんですね。
アディダス買収時にはタピは充分に怪しまれてしかるべき存在でしたが、得意の政治的な裏工作よって資金調達に成功し、また、ドイツの伝統企業であるアディダスの買収ということで、フランス
の威信がかかっていたという情勢も買収劇の追い風となっていたようです。

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タピがアディダスで残した実績は特筆するものはありません。
ルコックやポニーを早々に売却したばかりで、企業体質を改善するであるとか、画期的な改革を遂行したということもなく、アディダスの中身は苦しい状況のままでした。
結局、出資したフランスの銀行、クレディ・リヨネがタピに融資の返済を迫り、所有権を放棄させることになったいうのが結論となるのです。
これが1992年のお話。
こうしてタピから取り上げた形となったアディダスの所有権はクレディ・リヨネが手にすることとなりました。
新オーナーとなってしまったクレディ・リヨネ。早速、再建に向けて次の救世主を探す作業を始めます。
 

ー The Story of “adidas”. Vol. 10 ー

クレディ・リヨネが目をつけた白馬の騎士は生粋のイギリス人、スティーブン・ルービンでした。
スティーブン・ルービンはイギリスの製靴会社 『ペントランド・インダストリーズ』 の社長であり、本物の専門家、しかも本物の大富豪でした。
ルービンは当時大した業績ではなかったリーボックのアメリカ子会社との関係で、大富豪の仲間入りを果たします。
1958年にイギリスで創業したリーボックですが、大きな成長を遂げるきっかけとなったのは、やはりアメリカ市場での成功でした。
リーボックUSAを成功に導いたのは別の人物で、ポール・ファイアマンというアメリカ人です。
ファイアマンはアメリカでの販売権を得て、1980年代に爆発的な成長を成し遂げ、その成長があまりに急激であったために、さまざまな点において無理が生じる事態となりました。
そこでファイアマンはイギリスのペントランド・インダストリーズのスティーブン・ルービンに助けを求めるのです。
ルービンはリーボックUSAに対して、リーボックUSA社株を買い取ることによる資金の提供を遂行しました。
そしてその後10年のうちに、リーボックUSAはさらなる成長を遂げ、アメリカ市場ではナイキに次ぐ2番手の位置まで上り詰めたのでした。
ルービンが買い取った株の価値は途方もなく膨れ上がったことは言うまでもありません。
こうして大富豪となったルービンは、続いてアディダスの買収という案件に取り組むことになったのです。

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ルービン率いるペントランドは、まずアディダス株の20%を買い取り、その段階で残りの80%は4ヵ月以内にさらに熟慮のうえ取得するという契約を交わします。
本契約を交わす前に、アディダスの帳簿の精査や社内のいろいろな状況を把握するための時間が認められた契約です。
そして、ルービンは吟味に吟味を重ねた末・・・、
「残りの株の取得は取りやめる」 との声明を発表するのです。
つまり、買収を取りやめ、手を引いたのです。
内情を精査したルービンは、アディダス内部に多数の欠陥を発見し、買収をする気を失ったとのことでした。

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決まりかけていた買収の話が流れ、クレディ・リヨネとアディダス本社のショックは大きかったようです。
もっとも後日談ですが、この買収は流れて正解だったという声が一般的な見解であり、アディダスが立ち直った後の話ですが、この時ペントランドの傘下に入らないですんで良かったのだという評価がされているようです。
アディダス・アメリカの社長を経て、その後ペントランド・インダストリーに移ったロディ・キャンベルの談は以下の通りです。
「ペントランドがアディダスをうまく統率できたとは思わない。彼らはイギリスを拠点とし、その優れたライセンシーたちの才能は、本来の専門分野から外れたレジャー用品ブランドの世界で発揮されている。とはいってもスポーツ分野を動かす会社ではないのだ。真のスポーツブランドは二つしかないということを忘れてはならない。つまり、ナイキとアディダスのことだ。」

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ルービンの撤退を受けて、アディダス社員の誰もが会社は清算されるだろうと考えました。
クレディ・リヨネは買い手のつかない巨大企業を抱え、途方に暮れています。
しかしです、この後、とうとう本当の救世主が現れるのです!
 

ー The Story of “adidas”. Vol. 11 ー

ロバート・ルイス・ドレイファス、それがアディダスの窮地を救った本当の救世主と言われる人物です。
ドレイファスは欧米を股にかけて活躍する本物の実業家です。
ドレイファス家はフランスの家系で、本家はルイス・ドレイファス・アンド・カンパニーという財閥でした。
ルイス・ドレイファスはこの同族会社で7年間働きますが、自立を目指して退社、その後、アメリカの市場調査会社のCEOとして職を得ることになります。
そして身を粉にして働き、数年後にはこの調査会社を大きな価値を持つ会社に成長させ、めでたく大きな利益を得られる条件で売却するのです。
そしてその後、ロンドンを拠点とする広告代理店、サーチ・アンド・サーチの指揮を執り、経営不振を続けていた同社を蘇らせます。
こういったルイス・ドレイファスの手腕は、『経営再建の名人』 という認識で世間から高い評価を受けるようになったのです。

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アディダスとルイス・ドレイファスをつなぎ合せた人物がいます。
クレディ・リヨネはルービンの撤退後、改めて企業や投資家、財界人などにアディダス売却の打診をこころみましたが、その中の一人に、フランス人の投資家、クリスチャン・トゥーレという人物がいました。
このトゥーレという人物は、ルイス・ドレイファスのアメリカ調査会社時代の同僚にして親友であり、クレディ・リヨネからこの案件の打診を受けた際に、「ルイス・ドレイファスと一緒でなければダメだ」 という条件を出したのです。
トゥーレからの誘いを受けるかたちで、ルイス・ドレイファスはアディダス買収という案件に登場してくるわけです。

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ルイス・ドレイファスとトゥーレは、基本的に 「この取引を強く望んでいるのは私達よりもあなた方だ」 という姿勢で、 銀行がまるで慈善とでもいうような申し出をしてくるのを待ってから買収を承諾し、信じられないような有利な条件をのませながら交渉を進めていきます。
結果的に、二人にとって非常に有利な条件で買収の契約を締結し、とうとうアディダスの新しいオーナーが誕生したのでした。
こうして財務の人間であるルイス・ドレイファスとトゥーレが、スポーツシューズ・ウェアの伝統企業の再建を手がけることになったのですが、ルイス・ドレイファスが舵取り役になり、息つく暇もなく改革に取り組みはじめるのです。

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ルイス・ドレイファスは直ちに社風の改善に取り掛かります。
手始めに、社内の重役のオフィスが集まる5階のセキュリティシステムを取り外し、上層部が閉鎖的な空間で時間を過ごすことをやめさせたのです。
ルイス・ドレイファスのオフィスも常にドアを開け放した状態にして、会社の重役達が開放的な気分で仕事をする環境へと変貌していきます。
さらに、今後ブランドがますます国際化していくことを念頭に置いて、社内の職務上で用いる言語もドイツ語から英語を使うことを奨励します。
そして、よりスポーツ用品会社にふさわしい服装で出勤しようということから、これまで当然とされていたスーツとネクタイに代わって、カジュアルウェアの服装で仕事に励むことに変えられました。
こういった諸々の改革とルイス・ドレイファスの人柄のおかげで社内の雰囲気は短期間のうちにガラっと変わります。
普通ならCEOというポストにいる人間が出席しないような社内ミーティングに顔を出して、一般社員や準社員をドギマギさせたり、靴も履かずにしわくちゃのシャツをまとってオフィス内をうろうろしているドレイファスをアディダス社員は受け入れ、愛したのでした。
「みんな彼のだらしなさが好きだった。寝癖がついた髪や、穴の開いた靴下、机に乗せた足・・・」
「彼がいると楽観的になれるんだ。そこが他の億万長者とは違う」
「細かいことにはこだわらない人で、部下達に決めさせるんだ。つまり社員が好む無干渉経営だったのさ」

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なにやら変化の兆しが見え始めたアディダス。
ある社員は言いました。
「アディダスはスーツに身を固めた時代遅れのドイツの会社から、活気があり、国際的でスマートなセンスのいい会社に変貌したんだ」
新しいオーナーを迎えるまでに、アディダスのビジネスの現場ではもがき、苦しみながら様々な改善やチャレンジが試みられていました。
そうした中のいくつかが成果を出しつつある時期でもあり、信頼に足るトップの人材を得たアディダスは、徐々に往年の力を取り戻していくのです。
 

ー The Story of “adidas”. Vol. 12 ー

ロバート・ルイス・ドレイファスが新しいCEOとして就任し、アディダスは徐々に勢いを取り戻していくのですが、お話をルイス・ドレイファス就任の少し前に戻します。
ルイス・ドレイファスが指揮を執りはじめる数年前から、アディダス社内では、いくつかの試みが為されていました。
会社の買い手がいない状態でも会社は運転されていけません。
現場で働く社員達は、良い仕事をして、少しでも会社を再建させようという意識を持ち続けて働いているわけですからね。
落ち込んでいった売上を取り戻すために新たなプロジェクトを発足し、結果的には成果を上げることに成功したのですが、その中心となった人物というのが、なんと、元ナイキの社員であった二人の人物だったのです。

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ロブ・ストラッサーとピーター・ムーア。
マーケティングの先見者であるストッラッサーと、デザインを担当するムーア、何と言ってもこの二人は、あの “エア・ジョーダン” の仕掛け人ということで有名です。
1984年にまだ若手の部類、『次世代のスター』 といった位置のマイケル・ジョーダンと250万ドルで契約をしたのですが、当時、これは常軌を逸した額だと思われてました。しかし、その後証明されたように、まさにナイキにとってこれは歴史的契約であり、どれほどの金額でも高いとは言えないというくらいの価値あるものとなったのは誰の目にも明らかでしょう。
なんとなんと、契約前のジョーダン本人は、アディダスを最も “クール” だと考えていたらしいです。
ここでも当時のアディダスのお粗末な面が垣間見れます。
ナイキを含めて数社がジョーダンとの契約を望む中、一番有利な立場にいたにも関わらず、ですよ。
結局、膨大な契約金に加え、何よりもストラッサーのすぐれたプランに心を惹かれたジョーダンはナイキを選び、ジョーダンにとっても、ナイキにとっても、まったくハッピーでクールな契約となったのでした。
ストラッサーとムーアは、ブランドの中にブランドをつくるという発想で、製品のデザイン、マーケティング共に完璧な仕事ぶりをみせ、アメリカ全土で入手困難になるほどの商品をつくり出したのです。
ラリー・バード、ジャバー、マジック・ジョンソン、選手としてジョーダンにも劣らないビッグスターですが、そのシグネチャーモデルのシューズをとってみると、“エア・ジョーダン” の競争相手になるようなものはありません。
選手のカリスマ性、支持層の把握、そしてそのターゲット層の好むデザイン、さらに高効率の物流や効果的な宣伝・広告、これら
の要素の総合体が、その商品の成否を左右するわけで、プレイヤー自体の知名度や人気だけが商品の成功につながるわけではないことが解かると思います。

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そんなストラッサーとムーアがアディダス再建のプロジェクトに関わることになりました。
ナイキ時代には大きな目標として、そして憎き商売敵として、 常に気にかけていたアディダスのために力を発揮しようとすることになったのです。
“エア・ジョーダン” での成功が大きすぎたために起こった、社長フィル・ナイトとの軋轢によって退社したストラッサーにとっては、これは大きなモチベーションをもって取り組めるプロジェクトであったのに対し、ムーアはさほど乗り気ではありませんでした。
それは当時のアディダスの風評を気にかけたもので、頑固で保守的でドイツ色が強すぎる会社で・・・などいった、そこで一緒に仕事をするとなると、ちょっとためらわれるというような噂が気になったわけです。
しかし実際ヘルツォーゲンアウラッハのアディダス本社を訪れ、 古くからの幹部からアディ・ダスラーと一緒に働いていた頃の話に耳を傾け、アディダス博物館を見学しているうちに、二人はすっかりとアディ・ダスラーの情熱から端を発したアディダスの伝統に心を奪われたのでした。
「アディ・ダスラーという男は、私がやりがいを感じている大切なことに身を捧げていたのだと確信して熱くなったよ。それは自分のつくった靴によって選手達のパフォーマンスをより良くしていくことなんだ」
とはムーアの弁。
同じ靴のデザイナーとして、アディの偉大さを理解し、猛烈にリスペクトしてしまったということですね。

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こうして二人は、低迷を続けるアディダスに力を与えるべく、アディダス復権の企画案づくりに取り掛かります。
1989年11月、ストラッサーとムーアは、アディダスのシューズ部門の幹部の前でプレゼンテーションを行いました。
二人が提案したのは、ブランドのルーツに立ち返った新たなビジョンでした。
アディダスの原点である、運動性能にこだわった純粋なスポーツブランドに立ち返ることが必要だと説いたのです。
“アディダス・エキップメント” というサブブランドを構築して育て、最終的にはそれを会社全体を運営するためのモデルにしていくというアイデアでした。
エキップメントの理念は、アディ・ダスラーが本来目指していたことの復活。余計な飾りを省いて、性能、品質、機能の三点だけにこだわった、アスリートのためのシューズづくりをする、ということです。
そしてそれをどのように管理し、どのように市場に出していくかについては、単にデザインだけでなく、サッカー部門や陸上部門などの専門の事業体を組織し、各部門が責任をもって、製品を消費者のニーズに近づけるというかたちをつくるのがベストであるということです。
ストラッサーは、この頃のアディダス製品は、アスリートとの間にアディの時代では想像もできなかったような大きな隔たりができていると感じていたのです。
当時のアディダスは完全に製品任せのオペレーションであり、“靴のやつら(デザイナー)” が靴を作ったら、“マーケティングのやつら” にそれを渡して売ってもらうといったやり方だったのです。
各事業体は、製品それぞれのコンセプトや開発・商品化のプロセス全てを掌握するために活発な働きをしなければならないと説いたのです。

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二人の行ったプレゼンで最も衝撃的だった提案が、会社の全く違うイメージを広めるもの、つまり新しいアディダスロゴでした。
世界的に知られたトレフォイルマークを、まったく新しいロゴマーク、3本のストライプでできた三角形に変えるという提案です。
この力強いロゴは、アディダスが真のスポーツブランドとして原点に帰り、そして新たに生まれ変わるということを世界に伝えるものというコンセプトです。
ストラッサーとムーアによる、これら一連の 『エキップメント』 の提案は、アディダス幹部に非常に魅力的に映りました。
わらにもすがりたい当時のアディダス幹部は、このコンセプトに飛びついたのです。
『それこそわれわれのアディダスだ』
『それが真のアディダスだ』
プレゼンを聞きながら、アディダスの幹部達はこうつぶやいたのでした。
 

ー The Story of “adidas”. Vol. 13 ー

さて、ストラッサーとムーアの提案を全面的に受け入れることを決定したアディダスは、彼らに大きな権限を与え、改革を進める方向に向かいます。
ストラッサーは社内の組織を徹底的に解体し、部門単位の事業体を導入して組織の強化の徹底を図ります。
苛烈に働く彼を見て、当時のアディダス社員はこう言いました。

「彼は働くことを存分に楽しんでいた。それを仕事とは思っていなかったんだ。21世紀を迎える準備をアディダスにさせるんだと頑張っていたよ。」
「我々は彼と一緒に一日中働き、終われば晩くまで食事に付き合わなければならなかったんだ。そんなわけで平日は朝の7時から仕事を始め、夜の12時に帰宅するというのが普通だった。仮にそうしたスケジュールが破られるのを期待しても、ストラッサーは週末に会議をするのも好きたっだんだよ。時には非情な敵意を示したり、けんか腰になることもあった。特に彼のことを理解していないとそうなるんだ。あれほど強烈な個性の持ち主と仕事をしたことは後にも先にもないと思う。」
「彼はすさまじい摩擦を引き起こした。激しい口論をするのを好み、自分が負けているとなれば、話をめちゃくちゃにするんだ。だからまあ、少なくとも議論が後戻りすることはなかったね。直属の部下達は、みんなストラッサーの分身と化していたが、彼らにも同じようになることをそそのかしていたっけ。」
要するに、ストラッサーはイケイケタイプ。パワーで仕事を推し進めるようなタイプだったようですね。
特に組織が方向性を見失った時などは、その方向が良いのか悪いのかを問題にするよりも、まずはエネルギーを高めてどこかに進んでいくことが大切になったりもするものです。
そういう意味で、ストラッサーのようなアクティブな現場リーダーが、この時期のアディダスには必要だったのだな、という感じがします。

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縦割りの事業体づくりは進められ、それぞれの事業体に、これまでの社内には無かった強い責任感と独立意識が芽生えはじめます。
そうなってくると当然、事業体間での摩擦などの問題が生じますから、その問題を解決するためのまとめ役、調整部門の事業体が生まれたりと、次々とアディダスの組織体系は変貌していくのです。
この時、売却先が見つからないような状況でしたが、社内ではハードの面での改革が着々と進められていたのです。

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一方、ピーター・ムーアが新しいロゴマークをデザインしたわけですが、そのあたりについても新たな展開を見せ始めます。
『エキップメント』 の展開が進むにつれて、新たな三角形のロゴマークの認知度も高まり、アディダス全体のメインロゴはどちらなのだという議論に発展していくことになったのです。
三角形のスリーバー派と従来のトレフォイル派に分かれ、社としてはきわめて重大な問題となっていくわけです。
スポーツ界では世界的シンボルとまで言えるトレフォイルマークの認知度は全世界で高く、アディがつくりあげたアディダスの象徴でもあります。
しかし現状の悲惨な状況を招いた象徴でもあるのはまぎれもない事実であるわけで、新しく生まれ変わろうとするならば、これを捨てるという考え方も、もちろんありうる話なのです。
結果的には、この議論の最中に就任したルイス・ドレイファスの決定で、
『両方残す』 ことになったのです。

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トレフォイルマークが残されることになった最大の要因は、リバイバルシリーズとして展開が始まっていた 『アディダス・オリジナルス』 が徐々に売り上げを伸ばしてきたからに他なりません。
オリジナルスの静かなブームは、低迷を続けていた当時のアディダスにおいて唯一の、そして久しぶりに味わう成功の事例でした。
このオリジナルスの成功がなかったら、今頃はアディダスからトレフォイルマークが一切無くなっていた可能性もあったかもしれません。
なにはともあれ、スリーバー・トレフォイル論争は、名誉ある引き分けというかたちにおさまりました。
そして、アディダスは一つのブランドにロゴが二つある珍しいブランドということになったわけです。
アディダスのある社員はこう語っていたそうです。
「ロゴ以前に、アディダスには大きな二つの要素がある。一つはアディダスというブランド名で、もう一つはスリーストライプ。この二つの要素はスポーツ界において、長年強いメッセージであり続けている。だから、二つのロゴを持つというのは、それほど問題ではないのだ」
ロゴよりも大きなアイデンティティを持っているのだから、ロゴに依存することはなく、柔軟な考え方を受け入れる体質があったというわけですね。
 

ー The Story of “adidas”. Vol. 14 ー

明確なブランドコンセプトの再定義から始まり、それに沿って組織革新がなされ、
ロゴに関する決定もなされ、アディダスの内部は明確に変化している状態です。
しかし、どん底まで落ち込んだ会社を立て直すのですから、そう簡単には結果としては現れてきません。
これは仕方ないです。
変化を与えようと大きなエネルギーを注いだ時、目に見える、肌で感じられる結果を手にするには、それまでの期間、何があろうと辛抱強く、自分達で掲げたコンセプトを信じ、同じテンションとエネルギーを注ぎ続けることができるかが大切になってくるのかな、と思います。
改革の序盤は大張り切り、少し経って疲れてきた時に結果が出ていない状態であると、信念がぐらついてきて、ひょっとしたらこのまま頑張ったところで、時間と労力の無駄になるのではないだろうか?なんて思ってしまいそうですからね。
そこをもうひと踏ん張りできるか、ではないでしょうか。
おそらくですが、新しいオーナーとしてルイス・ドレイファスが就任したのは
アディダスにとってそんな時だったのではないかと思えます。
ストラッサーとムーアを中心に取り組んだ改革に、さらにルイス・ドレイファスという
企業経営の名人がトップに立つことによって、社風の根底の部分が改善され、
改革が進めやすい基盤ができあがったのだと思います。
すごく頑張っているけどなかなか結果が出ない、そんな苦しい時期に、
まさに絶好のタイミングでのルイス・ドレイファス登場、だったと思えるのです。

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結果的に、ルイス・ドレイファスがトップに立って、みるみる業績が回復を始めます。
それはここまで書いてきた変革が功を奏しはじめ、結果に結びついてきたということです。
ストラッサーとムーアはアディダスに明確なビジョンを掲示し、そこへ向かう体制を整え、社員一人ひとりの意識を劇的に変えさせました。
ルイス・ドレイファスは、それらの改革がより一層進んでいくよう、資金の面での安心感を与えたのはもちろん、大きな視点でものごとを捉え、技術な面やコアな戦略的な部分の以前の部分に必要な改革を大胆に断行しました。
そうした内容とタイミングがかみ合って、アディダスは名実ともに復活を遂げることに成功したのです。

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アディダスの復活は、ルイス・ドレイファスが魔法をかけたように見えます。
実際には、消費の側からは見えない部分での努力の積み重ねがあったわけですが、『魔法をかけた』 という表現も間違っているようには思えません。
CEOに就任後、自分の執務室のドアを開け放し、役員達を解放的にして、
自らもいろいろな社内会議に顔を出し、社風を打ち解けた状態に変えることから
はじめて(これはストラッサーが持ち込んだ新しい組織体系や、ストラッサーが連れてきた国際感覚豊かな若い社員によく馴染んだのです)、一方で採算の合わない
ヨーロッパの工場を閉鎖して、その分テレビ広告に大金を投じます。
マーケティングや広告の予算をそれまでより大幅に増やし、 外に向かってより積極的な姿勢をとりながら、リーボックから幹部を引き抜いて、アジアの工場の生産体制を強化していくことも忘れません。
マーケティングの分野では、サッカーやラグビーのいくつものチームと契約するよりも、インパクトのあるスター選手と契約することが大切であると理解しており、
既にチームとして大きな “スポーツブランド” と化しているレアル・マドリードと首尾よくスポンサー契約をしたりもしています。
例えば国際ラグビーに投資を増やそう決まった時、
「候補はどこだい?」
「南アフリカ、フランス、アルゼンチン、ブリティッシュ・ライオンズ ・・・」
ドレイファスは途中で遮って、
「最高のチームは?」
「オールブラックス(ニュージーランド)でしょうか」
「よし、他は全て却下だ。オールブラックスに決めよう」
それから1週間のうちに宣伝部の部長がニュージーランドへ飛び、スポーツ史上最大となる契約を結んだというエピソードもあります。
そして何より、国際的であり、企業経営の名人としてのルイス・ドレイファスの存在感が社員にプライドを与えたことも彼の大きな功績と言えるでしょう。
そのカリスマ性は、社員に 『自分達のトップに立っている人間は、ルイス・ドレイファスだ』 という自信と安心感を与え、いろいろな局面で、一人ひとりの仕事ぶりに好影響を与えたのです。

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こうしたルイス・ドレイファスの経営手腕や現場での努力によって、アディ・ダスラーが興した “adidas” というブランドはみごとに復活し、現在に至ります。
一介の靴職人であったアディ・ダスラーの熱意によって生み出されたスポーツシューズブランドが世界的なスポーツの総合ブランドとして君臨することになっていくのですが、その歴史を辿ると、世相・時代の移り変わりによって変化しなければならない部分と、アディ・ダスラーが極めたブランドのコアとなる熱意や精神といった変わってはいけない部分が、機会がある度に浮かび上がっていることが分かり、非常に興味深く思えます。
さて、歴史を辿るのはここまでとし、次回あたりでいいかげんに最終回としようと思います。
 

ー The Story of “adidas”. Vol. 15 ー

最後にアディダスにかかわるおもしろいエピソードを。
1980年年代後半、アメリカ。
ヒップホップ・グループである RUN D. M. C. が 『マイ・アディダス』 という曲をリリースします。
当時人気絶頂のスターであった RUN D. M. C. のメンバーの面々は、靴紐を取り払った “スーパースター” を履きながら、“最高にクール” なパフォーマンスを続けていました。
彼らのアディダスに対する愛着によって、曲名にブランドの名前が入るという、まさにアディダスに捧げるような曲をリリースしてしまったのです。
時は80年代、そうです、アディダスが “ダメな時期” です。
これを知ったアディダス陣営は、あろうことか、ブランド名の乱用を懸念して、訴訟を起こそうかと検討に入るのです。
お金では手に入れられないような、ブランドとしては夢のような宣伝活動をしてもらえていることが理解できなかったのです。
さすがに時間が経って状況を理解したアディダス幹部達は、慌てて彼らに山ほどのシューズを贈呈し、150万ドルで契約をしたのでした。

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今ではきっとありえない話でしょう。現代であれば、曲名や曲中にブランド名などの個別名刺が入るとなれば、背広を着た人同士がお互いの利益を話し合い、ビジネス的な要素をふんだんにまとってリリースされるはずです。
しかし、この時は違ったのです。
「『マイ・アディダス』 を歌ったのは、アディダスが好きだったからだ」
とDMCは言っています。
そして、『マイ・アディダス』 がリリースされた16年後、悲しい事件が起こります。
レコーディングスタジオに銃を持った男が押し入り、ジャム・マスター・ジェイの頭部を銃撃、残念ながら即死でした。
告別式の参列者は2000人を超え、メンバーのRUNとDMCも教会から墓地まで
棺を担いだのですが、その際、棺に付き添った人々は全員、亡くなった友への敬意の印として、白の “スーパースター” を靴紐無しで履いていたということです。

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ジネディーヌ・ジダンやデビッド・ベッカムが愛用するサッカースパイクは
“プレデター” という傑作モデルです。
これは90年代のアディダスのヒット商品、つまりアディダス再建時代に重要な役割を果たした、アディダスの会社的には非常に意味のあるプロダクトでした。
着想から初めて製品化された “プレデター” は誰もが認めるひどい製品だったようです。
とにかく重かったらしいです。
従来のスパイクよりも、キックのコントロール性能を高めることを目標にして作られたのですが、お粗末な品ができあがってしまいました。
当時まだ現役のマラドーナに披露し、意見を求めると、彼はこう言いました。
「僕がこれを欲しがると思うのかい?フィールドには裸足で立ちたいくらいなのに、なんでゴムタイヤなんか履かなきゃいけないんだ」
・・・
しかしアディダスはコンセプトを変えることなく改良に改良を重ね、ベッカムやジダンに気に入られるようなレベルまで品質を高め、待望の主力製品にまで発展させたのですから素晴らしい。
まさにこれがアディ・ダスラーの血統、アディダス精神ということですね。

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さてさて、以上のような感じで、長々と続けてきたこのお話も終わりになります。
アディダスの社史に、本当にざっとですが触れさせてもらったわけですが、
栄光や衰退、挫折や復活、いろいろありながら現在の地位を築いてきたんだなぁと思いました。
素晴らしいなと思えるのは、なかなかうまくいかない時期、社をあげて頑張ろうっていうことになった時に、そこで働く人々がしっかり会社に対して、もしくはブランドに対して愛情と誇りを持って真剣に取り組んでいたことです。
そしてなぜそれが素晴らしいかと言えば、その “adidas” というブランドの求心力というか、かかわる人々を惹き付ける魅力というか、ブランド・パワーそのものの力がとてつもないと思えるのです。
ブランドにそういった力を持たせた創始者のアディ・ダスラー、結局この人が偉大だということですよね。

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大きな会社になるには邪魔になるようなアディの純粋な職人魂がまずあって、
けれどもその魂に触れたいアスリートは世界中に存在してするために、
どんどん大きくなってしまったアディダス。
アディ亡き後、大きくなったブランドは大失速、会社はギリギリまで落ち込んでしまいますが、アディ時代の精神を取り戻すことで、再び息を吹き返します。
その精神を取り戻させた優れた幹部や経営者を惹き付けたのも、このアディ・ダスラーの精神に共鳴してのことのように思えます。
優れた精神には、いろいろな優れたものが宿るわけですね。
“優れた” というのは、ビジネスの世界では非常に難しいとされる “純粋さ” なのかもしれません。
いつの時代も、人々が惹き付けられるものの多くは “純粋”度が高いものですし、
それは交わす言葉や付き合い、さらに製品やサービスにも乗っかって、いろいろな方面に伝わっていくものですからね。

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そんなわけで、この辺りで。
最後まで読んでいただけた人がいましたら、非常にうれしいです、
ありがとうございました。
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―― 次回に続きます。
※この文は 『アディダス 進化するスリーストライプ』(コンラッド・ブランナー著/ソフトバンククリエイティブ) の内容に則しています。


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